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罪悪感 07

last update Last Updated: 2025-04-18 04:51:25

三神メイサの言葉がぐるぐると巡る思考の中、春花の頭の中には高校生の時の静の言葉がよみがえる。

『俺は世界中の人を俺のピアノで魅了させるのが夢だ』

そう言った静はキラキラと輝いていた。春花はそんな静を応援したいと心から思っていたのだ。

(ああ、そうだった。静の夢は世界に羽ばたくピアニストなんだった)

そう思った瞬間、春花の心の中にあった何かが崩れ落ちた気がした。

静とは一緒にいたい。ずっとずっと好きだったのだから。

ようやく手に入れた自分の居場所。これからも大切にしたいと思っているのに。

自分が愛されている、守られていることをひしひしと感じる幸せな今の生活。

でもそれはすべて静の夢を犠牲にして成り立っているという現実。

もし静が海外にいったらどうなるのだろう。

もっともっと有名になったらどうなるのだろう。

平穏が変わってしまう事を考えると怖くてたまらない。静がいない生活なんて考えられない。

でも……。

だからといって、自分のために夢を犠牲にするなんてことはしてほしくなかった。

一緒に音大にいけなかった、ピアニストの夢をあきらめた春花にとって、今でも静の夢には全力で応援したいと心から思う。それが春花の夢でもあるからだ。

(私なんかのために夢をあきらめちゃダメだよ)

込み上げる涙を我慢して、春花はメイサの元を去った。
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